愛と好き〜尊重すること

「愛している」という言葉も、

人によって、
そして、(同じ人であっても)その時々によって、

表す意味合いがちがうと思うが、

 

わたしの場合、

存在そのものの感覚、、、ただある「愛」が、

一番根っこにあって、

 

そして、
その、ただある愛が、対象を持つことで、

「愛する(愛される)」
「愛している(愛されている)」…となる感じ。

 

 

まず、「存在」のすべてを、
ただ、観ているような(…ただ、気づいているような)
まったく分け隔てのない、ニュートラルな感覚があって、

さらに、

「存在」のすべてを、慈しみ、
愛(め)で育むように、見守っているような感覚や、

生命を、より自由にのびのびと、
生かしてあげたいというような、

親心のような「愛しい」感覚がある。

 

これは、本質的な領域の話だが、
人間的な日々の中でも、同じように、

誰かや、何かに対して、
その時、好きか嫌いか…とか、損得とかとは全く関係なく、

根底に、ずっと変わらずに、
ぬくもりや、つながりの感覚や、
愛しく思う感覚があり、

主に、それらを、
わたしは、「愛している」と呼んでいる。

 

 

後に書いた方の、

誰かや、何かに対して、
その時、好きか嫌いか…とか、損得とかとは全く関係なく、

根底に、ずっと変わらずに、
ぬくもりや、つながりの感覚や、
愛しく思う感覚があり、

…というやつを、

特に、「誰か」、つまり、人に対して、(もしくは、人から)
感じられるようになった…ということは、

わたしにとっては、正直、革命的なことだった。

 

全体的・本質的な、霊性の領域だけでなく、
個としての、人間性の領域で、
ようやく、愛を深く見出だせるようになって、

わたしは、そこで、初めて、
本当の意味で、愛を知ったのかもしれないと、今は思う。

 

どんだけ、人間不信だったんだよ…とも思うが、

同時に、それだけ、わたしは、

人間というものを通して、愛を知ること、
愛を感じることを、諦めきれなかったし、

それは、どうしても、
愛されたかった、愛を渇望していた、わたしがいたと同時に、

深く深く、人間というものを、愛していたわたしが、
いたのかもしれないと思う。

 

長いこと、
足りない心が、奪い合いをするような、、、
気持ちの綱引きをするような、、、

そんなやり方しか、分からずに、生きてきた。

そうしていることにも気づかずに。

 

そして、そんなふうに、愛を見失っていた日々すら、
愛を見出し、愛が花咲くための、温床だったのだと、
今はそう思うし、

今もなお、日々の中で、

過去からの無意識な反応や、癖が、、、
自分の一部の、閉じた、かたくなな心が、、、

愛を見失わせることも、ままあるが、

それでも、愛はいつもここにあって、
ぬくもりでつながっているということを、
わたしは知ってしまったし、

そんなかたくなな自分を愛することからはじめて、

大いなるいのちと、わたしという小さないのちを、

ただ、愛のままに、いのちのままに、

花が咲くように、風が吹くように、

つながりの内に、自ずと、
生きていたいと思っている。

 

 

たとえ、わたしや誰かが、
愛を見失っていたとしても、

わたしや誰かの、
なにがどうあろうが、

そして、互いに、
一緒にいることを選ばず、
離れるという選択を、したとしても、

どちらかが、どちらかを拒絶するようなことがあったとしても、

 

そんなことには全く関係なく、
時間も空間も飛び越えて、

愛している・愛されている…つながっている…ということを、
根底で感じられるようになってきたのは、

なによりも、

なにがあろうと、愛を与え続けてくれ、愛を教えてくれた、
大切な人のおかげだし、

これまでに出会った、
すべての人やものごとのおかげだし、

愛など全く感じられないような、残酷なできごとや、
自分の中の残忍性のおかげでもあるし、

そして、
生きてきた・生きている、自分のおかげだと思っている。

 

どんなプロセスも、すべてが愛しい。

未熟な自分も愛しいし、
愛が深まり続け、成長しつづけることも愛しいし、
さらなる可能性が待っていることも愛しい。

 

生きていることが、愛しい。

 

 

今、わたしの中では、

「愛してる」と「好き」は、
別のものだ。

愛しているけど、
嫌い(正確には「好きではない」)

っていうことだって、あるし、
それでもいい、それもありだと思っている。

 

わたしは、これが分からずに、
ものすごく苦労してきたなぁと思う。

嫌いなのは、その人やそのものごとの、
ある一側面でしかないし、

そこが、わたしの望む自分の生き方と、
今、相性が悪いっていうだけで、

その人やそのものごとが、
悪いとか間違ってるとかいうことではないし、
(善悪や正誤の基準は、どこからどう見るかで、本当に変わってしまう。)

 

それは、もちろん、
わたし自身に関しても、同じくだし、

その人やそのものごとも、わたし自身も、
今は、それでOK(=存在そのものを愛している)…

その上で、

今、自分はこう感じているし、こうしたいんだ…と、

そうである自分を尊重して、
まず、自分は自分を生きることに注力する…

そんなふうに生きることを、
自分にゆるすようになって、

わたしはとっても楽になったのだ。

 

すべてを愛している・愛されているという土台のうえで、
わたしはこれが好き、これがいい、と、
自分の責任で、自分のために選ぶこと、
自分を生きることを、
少しずつ、始めたのだ。

 

 

どこまで憎んでも、嫌悪しても、
ずっと、たんたんと、自分と世界の奥底に、
変わらずに、愛があった、
(愛する/愛される…というような、動的な感覚もないほどに)

ただ、存在していた、

 

そのことが、

どんなに憎まれても、嫌悪されても、
ずっと存在そのものを愛されていることを、
わたしに理解させてくれたのかなぁとも思う。

 

なによりも、自分の中にあった、憎悪や嫌悪は、
自分への尊重の無さや、愛の欠如から生まれたものであったし、

恐れや、傷から、自分を守ろうとする、
自分への愛のカタチでしかなかったし、

憎悪や嫌悪すら通り越して、
冷徹に、機械のように、まったく痛みすら感じずに、
ひどいことをはたらくようなこころは、
自分を守りそこねたところから、生まれたものだった。

 

そういうものすら、
いつだって、無限の愛に育まれていたし、
まだ現れてない、とてつもない愛の化身でもあるのだと思う。

 

結局のところ、

(歪んだカタチになることも、ままあるが)自分に向けられた愛と、
誰かや何かに向けられた愛で、

世の中は成り立っていると思うし、

 

最も、愛することのよろこびや、幸せを感じられるのは、
自分と他者、どちらもを愛していることで、

人間としては、
順番的には、自分を愛することから、
始めるといいと、経験上、今は思っている。

 

愛されることのよろこびや、幸せについては、
感じる力、受け取り力に依るところが大きいが、
(「愛されていない」という思いこみが、
すでに与えられている、愛を見えなくさせるから。)

それも、やっぱり、
自分が自分をまるごと愛して、満たすところから、
始まっていくと思う。

 

自分という愛の泉が、
満ちて溢れて、
まわりに広がっていくようなイメージや、

自分の後ろ側から、愛で、
自分自身と、自分の世界を優しくつつみこむような、

そんなイメージは、
少しばかり、役に立つかもしれない。

 

でも、人であれ、ものごとであれ、「他者」と観えているものも、
本質的には、自分なんだよ。

個としてありながらも、
すべてはわたしだし、わたしはすべてなのだ。

いつだって、どこにいたって、そうなんだよ。

 

 

愛は、ユニバーサルなもので、
好きは、個人的なもの。。。

 

全てをたんたんと、ただ観ている感覚や、
なんの条件もなく、全てが愛しいという感覚、

全てである「存在」の感覚や、

ぬくもりや、つながりの感覚は、
いつだって根底にあるが、

 

個人としての私は、むしろ、
好みがものすごくはっきりしているし、

自分の繊細さは、自分の好みの世界を、
より明確に、際立たせて、創造するために使うことにしている。

 

やりたいことをやりたいし、
やりたくないことは、どうしたってやりたくない。

わたしという、人生の時空間を、
まず、わたしという生命のために、
「好き」でいっぱいにしたいのだ!

 

だから、わたしの場合、
自分にとって、優先度の低い、
やってもやらなくても、どっちでもいいことも、
やらないことに分類することが多い。

(ただし、どっちでもいいことや、やりたくないことでも、
やると気持ちいいことや、やるといいと思うことは、
意思をもって、自覚的に「やってみる」ようにもしている。

「やらねばならない」「するべき」では、やらないだけ。)

 

そして、好みでないことや、
嫌なこと、嫌いなものに対して、
わたしは、一旦、猛烈に否定するのだけれども(笑)

それは、
個人的な、自分の正直な気持ちや望みを感じるために、
一旦、そうしてみることを、自分にゆるしている…ということ。

 

例えば、対人であれば、
「◯◯された」ではなく、
「◯◯させた」と、そう考えるし、

(凸と凹、鍵と鍵穴のように、カチッとはまる何かが、そこにあるだけのこと。
凸は、◯に、ハマれないのだ!)

だからといって、自虐的・自責的にはならないし、

どっちが正しいか間違いかと言う尺度ではなく、

自分が、何を不快だと感じているのか、
(そこに、自分の制限が眠っていることも多い)
ゆえに、自分がどう生きれば、気持ち良くいられるのか、

まず、自分という生命のために、
たんたんと見極めて、

自分を尊重し、

外側(のように観えている)何かに抵抗し、
自分の思い通りに変えようとするよりも、

自分は、どうありたいのか、どうしたいのか、どうするのか、
わたしはこう生きる…と、決定的に選ぶ。

 

すべてがOKという土台があるからこそ、

自分の立ち位置や、自分のカタチを明確にするため、
自分が見出し創造したい自分の世界を明確にするため、
自分というものの尊厳を守り、自分を尊重するために、

自分から溢れ出てくる光を、
あらゆる側面で豊かに放射するために、

愛のために、

見極め、
そして、それを生きる。

 

わたしの場合は、概ね、

誰かやなにかを尊重できない時、
誰かやなにかを変えたいと思う時は、

自分を尊重することを怠り、
自分を生きていない時だから。

(そして、もちろん、
相手があることならば、自分の意見を伝えもするし、
それに対する、相手の意見を聞きもする。

自分の中の世界だけで、ものを観ると、
見えないことがいっぱいあるから。

そのうえで、どうしたいか、また決める。

コミュニケーションの前提として、
まず自分とのコミュニケーションから始まるんだなぁと思う。)

 

自分を尊重することから始めれば、
誰かやなにかを尊重することもできるし、

外側の何かを否定することに使うエネルギーを、
自分と、自分の世界の創造のために使えるし、

結局、あとには、感謝しか残らない。

 

本質的に、伝えたいことって、
結局のところ、
愛してると、ありがとうに集約されていくと、
いつも思う。

愛することと、愛されること、
与えることと、受け取ること…と言ってもいい。

 

そうやって、愛が、動きを持って、
めぐりめぐっているだけなのだと、そう思う。

 

 

愛しているけれど、自分の「好き」と、噛み合わない場合や、
一緒にいることで、自分が自分らしくいられない場合は、

少し離れてみて、
自分が気持ちよくいられる距離をとる…ということを、
まず、自分のために、するようになった。

(もちろん、前提として、
率直なコミュニケーションを取ってみて、互いの理解を深めることも。)

相手が、嫌いだから…というよりは、
自分の「好き」のためや、
自分が自分でいられるように、
離れてみるけど、

そこには、ずっと愛があることを知っているから、

今は、離れることも、離れられることも、
怖くなくなってきたように思う。

 

愛している・愛されているは、
ずっと変わらずにあるから、

自分の「好き」にネコまっしぐら♪

それ以外のことは、
スルーする…というと、ちょっとニュアンスが違うけど(笑)

つながりは感じているけど、
執着はしないでいる、手放して自由にする…というのが、

今のわたしの方針である。

 

好みは人それぞれなのだから、
違っていていいのだ。

 

こういう、距離感については、

もしかしたら、とても当たり前のことなのかもしれないが、
わたしは、これが、まったくわからなかったのだ;

おかげで、こうやって、試行錯誤しながら、
自分なりのやり方を見つけられることが、
宝物のようにも思えるし、

もしかしたら、もっとステキなスタンスや、考え方も、
あるのだろうと思うし、
そういうものと、また出逢えるのも、楽しみだ。

 

 

わたしが、わたしの「好き」を極めて、純化していくことが、
わたしという生命が最も輝くことであり、

結果的に、わたしから放射されるギフトとしての光が、
もっとも豊かに分かち合われることになる。

 

さまざまな彩り、さまざまな輝きがあるから、
生命はそのままで美しいし、無限に豊かだ。

あらゆる違いが、無限にあって、
生命は、あらゆる可能性を通して、
それ自身を知ろうとしているし、

そのすべてが、存在という愛にささえられている。

どんな彩りの違いも、それをどう使うか、どういかすか、
それだけで、生きる世界が変わると思う。

好きを極めていくと、愛と感謝が溢れてくる。

まずは、自分の「好き」を、尊重して、
とことん生きてみること、

自分をよろこびに生かすことが、
なによりも、世界を豊かにすると、そう思って、生きている。

愛と好きのお話しでした❤

 

寝相も好き好き!

 

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